第四章 解説

4.1 いす形および舟形シクロヘキサン

かつてシクロヘキサン(図4.1.1-1)をはじめとする脂環式炭化水素、シクロアルカンはすべてベンゼンと同しく平面構造(下図参照)をとると考えられた。炭素の結合角は正四面体角(109°28′)であるから,この考えによると、平面構造をとるためには本来の結合角をひずませる必要があり、シクロペンタン以外のシクロアルカンは多かれ少なかれひずみのエネルギーによって不安定になっている(Baeyerの張力説)。またこの考えによればシクロペンタンが最も安定で、シクロヘキサンがそれに続いて安定である。


図4.1.1

図4.1.2

Baeyerの張力説は、たとえばシクロプロパンの高い反応性(容易に開環する)をよく説明する。しかし、シクロヘキサンは必ずしも平面構造をとらなくてもよいこと、むしろ非平面構造をとれば正四面体角の結合角を保つことができることなどが次第に明らかになってきた。環構造をとっているため、シクロヘキサンが取りえる形は対応する直鎖化合物ヘキサンに比べてはるかに限定されている。

それにしてもシクロヘキサンの炭素-炭素単結合の回転によって環はべこべこする。この環の動きはシクロヘキサン(図4.1.1-1)の任意の連続した4個の炭素、たとえばC1-C2-C3-C4図4.1.1-2)をプタンの場合と同様にねじれ角を見積もることによって記述できる。これらは分子模型で容易に確認することができる。

シクロヘキサンのC1~C4ブタン類似単位のねじれ角-エネルギー関係はブタンのそれに一致するとすれば,ねじれ形(図4.1.3-3)のほうが重なり形(図4.1.3-4)よりも安定のはずである。したがってねじれ形6単位(通常ブタン・ゴーシュ形という)を含むシクロヘキサンは、その結合角がすべて正四面体角で、しかも最も小さいポテンシャルエネルギーを持つ分子である。


図4.1.3

図4.1.4-55'に示したような形のシクロヘキサンはいす(chair)形シクロヘキサンと呼ばれる。ブタン類似単位がアンチペリプラナー配座を取りえないから、いす形シクロヘキサンは最安定形のシクロヘキサンと考えられる。炭素のすべての結合角が正四面体角を持つシクロヘキサンには、いす形だけではなく、(boat)形(図4.1.4-6または6')もある。


図4.1.4

いす形シクロヘキサンの12個の水素原子に注目しよう。各炭素原子からのびている2本のC-H結合のうち1本は、6個の炭素原子がつくる擬和平面に対して垂直、1本はその平面に平行である。シクロヘキサンの炭素骨格を地球の赤道と対応させ、赤道面に垂直な結合をアキシアル(axial)結合、赤道面に平行な結合をエカトリアル(equatorial)結合、それに結合した原子または原子団(たとえば水素原子)をアキシアル原子、エカトリアル原子などという。


図4.1.5

いす形シクロヘキサンには2つの書き方がある。1つは5または5'のようにC2-C3-C5-C6のつくる面が水平になるように書く書き方で、舟形シクロヘキサンと比較するときに便利である。これに対して9および10で示した書き方は、C2-C3-C5-C6のつくる面を少しかたむけ、そのかわりアキシアル結合が垂直になるようにする。アキシアル結合・エカトリアル結合が問題となるとき便利である。

4.2 シクロヘキサンの反転

いす形シクロヘキサンと舟形シクロヘキサンの関係はどのようなものであろうか。模型を用いて調べてみよう。いす形シクロヘキサンの前足の部分を静かに上方に持ち上げると舟形シクロヘキサンができる。このとき模型を注意深く観察すると、炭素-炭素結合の回転が同時に起こっていることがわかる。このいす形-舟形の変換は、シクロヘキサンの反転(inversion)と呼ばれる化学交換(chemical exchange)の一部である(図4.2.1)。


図4.2.1 シクロヘキサン環の反転

いす形11がC1を中心とした回転(i)によって舟形12になることは既に述べた。実は1112の変換と全く同じ確率でもう1つの舟形14が生じる回転(v)がある。舟形12はC1を下げてもとの11に戻ること(回転(viii))も、C4を下げて別のいす形13に変換(回転(ii))することも起こりうる。第二のいす形13は、C1を下げて舟形14(回転(iii))、C4を上げて舟形12(回転(vii))に変わる。一方、舟形14からの2つのいす形11または13への変化(回転(iv)と(vi))もまた起こる。いす形シクロヘキサンと舟形シクロヘキサンの変換のエネルギー障壁は低く、分子は容易に【1112131411】のシクロヘキサンの反転を行なう。

シクロヘキサンの反転によってできる2つのいす形1113は同じ形であることが分かった。しかしこの2つは厳密に同一といえるだろうか。アキシアル水素6個だけを持ついす形シクロヘキサン(図4.2.2-15)をつくり反転させてみると、もう1つのいす形16では、この水素はすべてエカトリアル水素となっている。同様にエカトリアル水素6個だけをもつシクロヘキサン17は反転によってアキシアル水素6個を持つシクロヘキサン18に変わっている(図4.2.2)。


図4.2.2 反転によるアキシアル⇔エカトリアル変換

すなわちシクロヘキサンは反転によって同一のいす形に変わるのではない。水素原子を無視すれば確かに1113とは同一であるが、15161718は同一ではない。もしシクロヘキサンの2種類の水素原子が区別できるならば、シクロヘキサン(図4.2.3-19)と、反転によって生ずる別のいす形20とは別の物質となる。このことは置換基を持つシクロヘキサンの反転を考察すれば明らかとなる。


図4.2.3

4.3 置換シクロヘキサンの反転

シクロヘキサンの水素原子の1つをメチル基で置換したメチルシクロヘキサンを考えよう。メチルシクロヘキサンの2つのいす形は、シクロヘキサンの場合のように同等とはいえない。メチル基がアキシアル配座の異性体(図4.3.1-22)とメチル基がエカトリアル配座の異性体21は明らかに1組の立体異性体である(図4.3.1)。


図4.3.1 メチルシクロヘキサンの反転

シクロヘキサンの2つのいす形1113は全く同じ形であり、同一物と見なしえたのに対して、メチルシクロヘキサンの2つの異性体2122では、明らかに原子の空間的配列が異なる。分子模型を用いて調べてみると、いす形シクロヘキサンの12個の水素原子のうち、C1、C3、C5に結合する3個のアキシアル水素原子間の距離は比較的小さい。もしこのうちの水素の1個、C1に結合している水素原子がよりかさ高い、たとえばメチル基で置換されると、メチル基とC3またはC5に結合している水素原子との間にはかなりな立体的反発が生じ、このためアキシアル異性体22はエカトリアル異性体21よりも不安定になる。この種の相互作用は一般に1,3-ジアキシアル相互作用(1,3-diaxialinteraction)と呼ばれる。

4.4 置換シクロヘキサンの異性体数

環の反転による構造変化を無視する、言い換えると環の反転によって平均化したとみなすと、メチルシクロヘキサンの異性体数は1となる。しかし反転による構造変化を認めれば、異性体数はエカトリアル形およびアキシアル形の2種となる。このように、置換シクロヘキサンの異性体数は、環の反転による“平均化”を考慮するか否かで違ってくる。

シクロヘキサン環の反転による平均化を認めれば、シクロヘキサンのいす形、舟形を考える必要はなく、単に平面分子と考えても同じことである。メチルシクロヘキサンは図4.4.1-25とも26とも書ける。面の上下を区別することは、一方をアキシアル方向、他方をエカトリアル方向と見なすことであり、平均化を認めない考え方である。


図4.4.1

平均化を認めると、1,1-ジメチルシクロヘキサンは1種(図4.4.2-27)、1,2-ジメチルシクロヘキサンには2種(28)と(29)の異性体があることになる。1,2-ジメチル体のうちメチル基が同じ側にある28がシス異性体、反対側にあるのがトランス異性体である。


図4.4.2

しかしながら、環の反転による平均化を認めないと、すなわちメチルシクロヘキサンにおいて2122を異性体とみなすと事情は変ってくる。ただし1,1-ジメチル体(図4.4.3-27)の場合は、反転によって同一物27に変化するから、シクロヘキサンの場合と同様、平均化を認めても、認めなくても異性体数は1である。


図4.4.3

しかし1,2-ジメチルシクロヘキサンでは事情は異なる。まずトランス体では、2つのメチル基がともにエカリアル配座をとる異性体(図4.4.4-34ee、以下1,2-eeと略記)は反転によって1,2-aa異性体34aaになる。両者は2122と同じ意味で異なる物質である。したがって、その存在比は異なるはずであり、2つのメチル-水素-1,3-相互作用を含む34aaのほうがややエネルギーが高く、したがって平衡はかなり左によっているはずである。


図4.4.4

次にシス体を考える。35ea35aeはどのような関係にあるだろうか。メチル基の配座という点では2つは同じであり、したがってエネルギーも等しいから、上記の平衡は50:50となっているはずである。ここで興味深いのは両者の立体化学的関係である。同一物であるかどうかを模型を用いて調べてみるとよい。この点については後で詳しく学ぶことにする。


図4.4.5

4.5 シクロプロパン・シクロブタン・シクロペンタン

環状の飽和炭化水素であるシクロアルカンCnH2nのうち、n=3~5のシクロプロパン(図4.5.1-42)、シクロブタン43、シクロペンタン44はいずれも∠C-C-Cが正四面体角からずれている。シクロプロバンは化学反応性は大きいが、環としてはかたく、シクロヘキサンのように反転することはない。しかし1,2-二置換体ではリガンドが環の上方に位置するか下方に位置するかによって、シス・トランス異性が生ずる。


図4.5.1

たとえば1,2-ジメチルシクロプロバンにはシス形(図4.5.2-45)とトランス形46の2つの幾何異性体がある。


図4.5.2

シクロブタン(図4.5.3-43)は長い間正方形の平面分子と考えられていたが、現在では少なくとも気相や液相では正方形分子ではなく、2つに折った薬包紙のような形をしていて、シクロヘキサンと同じような反転をしていると考えられている。


図4.5.3

シクロペンタンもまた平面構造ではなく、シクロブタンと同じよう封筒形(図4.5.4-52)または半いす形53構造をとっていると考えられる。ただ52では環の反転はなく、起こるのは封筒の先の炭素が次々と交代していく過程である。封筒形では4個の、半いす形では3個の炭素原子が一平面上に並ぶ。


図4.5.4