第三章 解説

3.1 シス・トランス異性

いろいろな立体異性のうちで、いちばん理解しやすいのはC=C結合のまわりの幾異性であろう。よく例に出されるように、ジクロロエチレンには以下に示す3つの異性図3.1.1-13がある。これらはいずれも異性体であるが、123は示性式も異なる構造異性である。これに対して23は示性式(ClCH=CHCl)は等しいが、原子の空間的配列が異なるので、立体異性体である。2においては同種のリガンドが二重結合(ここでは炭素-炭素二重結合であるが、一般の二重結合に適用される)のつくる平面上、二重結合に関して同じ側にあるのに対して、3においては反対側にある。すなわち立体配置が異なる異性体である。前者をシス(cis)形、後者をトランス(trans)形、この種の立体異性をシス・トランス異性または幾何異性(geometric isomerism)という。


図3.1.1

立体異性体ではあるがエナンチオマーではないものをジアステレオマー(diastereomer)と呼ぶ(詳しい説明は第6章)。シス形とトランス形は互いにエナンチオ関係ではなく、ジアステレオ関係である。一対のジアステレオマーは物理的化学的性質を異にする全く別の物質である。

二重結合は単結合と異なり、結合を軸とした回転がp軌道の重なりによって阻害されているため、通常幾何異性体は単離することができる。たとえば、trans-1,2-ジクロロエチレン(図3.1.1-3)は融点-50 ℃、沸点48.4 ℃であるのに対して、cis-1,2-ジクロロエチレン(図3.1.1-2)は融点-80.5 ℃、沸点60.3 ℃である。その密度も3は1.259、2は1.265であり、明らかに別の物性を示す。

3.2 Z・E命名法

第9問や第14問、第16問の実例からもわかるように、シス・卜ランス命名法は幾つかの場合にあいまいさを残す。この命名法は本来慣用的なもので、図3.2.1-1314のように特定の場合を区別するのには便利であるが、一般的命名法としては不十分である。


図3.2.1

幾何異性体の一般的命名法は順位規則に基づく。その手順は、

  1. 二重結合をつくる各原子に結合している2個のリガンド(非共有電子対を含む)の優先順位を定める.
  2. 優先順位が上位のリガンドが二重結合に関して
    同じ側のとき: Z(zusammenの略)またはseqcis配置
    反対側のとき: E(entgegenの略)またはseqtrans配置

seqcis、seqtransという前つづりは、それぞれ順位規則(SEQ uence rule)によるcis、transを表わす。しかし、現在はもっぱらZ、Eの記号が用いられている。

3.3 立体配座と立体配置

第二章ではエタンやブタンの誘導体のC-C単結合のまわりの回転に伴う異性体をコンホマーと呼ぶ一方、メタンの置換体やエチレン置換体に関連して立体配置という語を用いた。立体配座と立体配置の区別は一見自明のようにみえる。すなわち単結合の回転によって生ずる立体異性は、立体配座が異なるだけで比較的容易に相互変換が可能であり、またコンホマーは単離できない。

これに対して立体配置が異なる2つの化合物、たとえばブロモクロロフルオロメタンの一対のエナンチオマー、マレイン酸とフマル酸等は別々の化合物であり、単離することができる。

だが、マレイン酸が加熱によってフマル酸に変化するとすれば、相互変換が可能かどうかで、立体配座と立体配置を区別するのはあいまいである。むしろ相互変換が容易に起こるか否かで分類するほうが実際的である。

言い換えれば、相互変換のエネルギー障壁が低い立体異性体はコンホマー(配座異性体)、相互変換のエネルギー障壁が高い立体異性体は配置異性体(configurational isomer)である。このエネルギー障壁の目安として、相互変換する異性体が単離可能であるための障壁、100 kJ/molを考えてよい。

C-C結合のまわりの回転は自由に起こるが、C-C結合のまわりの回転はp軌道の重なりよって禁じられていると説明した。しかしフマル酸がマレイン酸に異性化する反応では、C=C結合の回転もまた起こっていると考えられる。

C-C結合の回転とC=C結合の回転との差は、結局回転が起こるために分子が経由しなければならない遷移状態のエネルギーの高さ(基底状態に比べた)の差と見ることができる。ここで、二重結合のまわりの回転に対するねじれ角-エネルギー図を考えてみよう(図3.3.1)。


図3.3.1 幾何異性体の異性化のねじれ角-エネルギー図

今、Z形(図3.3.1, 23)のC=C結合の回転によりE形25が生成し、さらに25のC=C結合の回転によって23が再生する過程をNewman投影図でたどってみよう。

2つの平面が直交したとき(24 θ = 90°)、すなわちC=C結合が完全に切断したとき、分子のエネルギーは極大となり、さらに回転がすすんでE体25が生じたとき(25 θ = 180°)、分子は第二のエネルギー極小の状態にある。この極小値はZ形の極小値よりも低いのが普通である。θ = 180°からθ = 360°までの様子ははじめの1/2回転と類似している。

3.4 ブタジエンの配座解析

ブタジエン(図3.4.1, 27)は4個のsp2炭素が連続した構造を持っている。その構造を27のように書くと、2個の独立した二重結合からなる分子のように見える。27を原子軌道の重なりて表わしてみよう。


図3.4.1

27は2組のp軌道が平行になって互いに相互作用するときも安定になる。このとき分子をつくる10個の原子はすべて一平面上にある。このような配座には2829の2つがあり、簡略構造式で示せばそれぞれ3031のようになる。

30では2つの二重結合が単結合に関してトランス、31ではシスになっているので、それぞれs-トランス形s-シス形という。前綴sは単結合(single bond)を示す。一般には立体障害の少ない30のほうがかなり安定なので、s-シス形はシクロヘキサジエン32のように環構造に固定されている場合のほかはほとんど存在しない。


図3.4.2