2.1 Newman投影図
前章の最後でエタンなどの炭素―炭素単結合のまわりの回転によって、分子の形に変化が起こることを述べた。しかしこの3次元構造の変化を2次元の紙面に正確に表わすためには、あらかじめ幾つかの取り決めが必要となる。
【見取り図】
分子の形を紙面に表わす第一歩は見取り図である。遠近感、立体感を強調するためにくさびや点線を用いるなどの工夫がなされている(図2.1.1)。くさびは紙面の上方に突き出ている結合を、点線は紙面の下方にのびている結合を表わす。見やすくするために、炭素原子を省略することも多い。
(a)
“木びき台”画法 (b)
“くさび”画法図2.1.1 エタンの見取り図 遠近感、立体感を出すために工夫がなされている。
だがくさび画法にしても木びき台画法にしても、分子の正確な形を伝えることは望みえない。一方、1.2、1.5で知ったように、4個の原子H-C-C-Hのつくるねじれ角は分子の形のよいパラメーターであるとはいえ、図1.5.3類似の図をそのつど書くのは面倒なので、エタン(図1.5.3)、あるいは一般に4つの原子ABCD(図1.2.2)のつくる二面角がよくわかる簡便な画法が提案された。Newman投影図である。エタン(図1.5.3(a))を例としてNewman投影図の描き方を説明する。分子をC-C結合軸方向から後方に投影すると6個の水素原子とC-H結合、および重なった2個の炭素原子が映る。手前の炭素原子を点で、後方の炭素原子を円で表わす。ねじれ角は指定した2個の水素原子HAとHBを含む2本の結合C-HAとC-HBのなす角として定義される。図2.1.2には図1.5.3(a)および(b)に対応するエタンの2つのNewman投影図を示す。
図2.1.2 エタンのNewman投影図
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2.2 エタンの配座解析
では1と2は互いにどのような関係にあるといえるだろうか。分子をつくる6個の原子の空間的関係が異なるから、互いに立体異性体である。だが、同じ立体異性体ではあっても、S1.3の14と15の関係とはやや異なる。前章の14と15とは構造上、結合の切断と再結合なしでは相互交換できないのに対して、本章の1と2とは結合の切断がなくても、結合の回転だけで相互交換が可能である。このとき1と2は立体配座(conformation)が異なるという。
▶ 第2問へ
では、1と2は、どのようにして区別されるか。C-C結合の回転によってφが変化すると、水素原子HAとHBの距離もまた変化する。水素原子と水素原子(水素原子とアルキル基、アルキル基とアルキル基)が接近すると反発のため、分子のポテンシャルエネルギーは大きくなる。φ=0°,120°,240°のとき反発は極大、φ=60°,180°,300°のとき極小になることを考慮して、横軸にφを、縦軸に分子のポテンシャルエネルギーをプロットすると図2.2.1が得られる。
一般にC-C結合(およびその他の単結合)のまわりの回転による分子構造およびポテンシャルエネルギーの変化を調べることを配座解析(conformational analysis)という。
図2.2.1 エタンのねじれ角-エネルギー図
S2.1 配座解析へ
エタン分子のポテンシャルエネルギーはφ=60°,180°,300°のとき極小、0°,120°,240°のとき極大となる。それぞれに対応する配座をねじれ形(staggered)図2.2.2-4、重なり形(eclipsed)図2.2.2-3という。エネルギーが極値をとるような異なる配座に対応する構造は、互いに配座異性体(confomational isomer)、あるいは単にコンホマー(confomer)(本書ではエナンチオマーと対をつくるように、コンホマーを統一的に用いる)という。実験によるとねじれ形と重なり形のポテンシャルエネルギーの差は約12kJ/mol(2.86kcal/mol)である。
図2.2.2
S2.2 重なり形とねじれ形へ
2.4 コンホマーの存在比
エタンには重なり形とねじれ形の2つのコンホマーがある。ではエタンはこの2つのコンホマーの等量混合物といってよいだろうか。この表現は二重の意味で不適当である。第一に、エタンには無数の配座があり、コンホマーに対応する配座はその1つの場合にすぎない。第二に2つのコンホマーはエネルギー含量も、エネルギーが極大か極小かという点でも異なり、等量存在するとはかぎらない。
この間の事情は、ねじれ角一エネルギー図を化学反応の進行に伴う反応系のエネルギー変化を示す、いわゆる反応経路図の一種とみなすと理解しやすい。横軸の反応座標が図2.2.4のねじれ角に対応している。重なり型異性体は化学反応における活性錯体に相当する高エネルギー種であり、特別の場合を除いて単離できるほどの長い寿命を持たない。したがってエタンの場合にかぎらず、プロバンやブタンの場合においても、重なり形は回転の中剛に短時間現われるだけである。
エタンはほとんどすべて最も安定なねじれ形として存在していると考えてよい。ブタンの場合にはねじれ形が2種あるから、2つのコンホマーの混合物として存在していると考えられる。このような場合、異性体の存在比は2つの異性体の自由エネルギーの差ΔGで決まる。
一般に平衡A=Bにおいて自由エネルギー差ΔG(cal mol-1)=GB-GAと平衡定数K=[B]/[A]との間には、
ΔG=-2.303 RT log K
の関係がある。ここでRは気体定数(1.98 cal deg-1 mol-1)、Tは絶対温度である。
S2.4 コンホマーの自由エネルギー差と存在比へ
▶ 第6問へ
だが、そうであるからといって、ブタンをアンチ形とゴーシュ形に分離できるわけではない。一般に相互変換しうる2つの化合物、たとえば6と8を室温で別々に単離するためには、相互変換のエネルギー障壁―ブタンの場合では6や8と5や7のエネルギー差―が少なくとも100kJ/molなければならない。実際のエネルギー障壁は図2.2.3からわかるように,たかだか15~20kJ/molのオーダーであり、室温で相互変換は自由に起こっていると考えられる。
▶ 第7問へ
2.5 エタン誘導体の立体化学命名法
ゴーシュ、アンチ、ねじれ形、重なり形など、Newman投影図に基づいて配座異性を命名する種々の手段はあるが、これだけでは複雑な場合には不足である。たとえば、2,3-ジメチルブタンには以下に示す3つのねじれ形があるが、水素原子を主役にしないかぎり、これらはゴーシュ形とかアンチ形では定義できない。
図2.2.5
このような複雑な場合にも適用できる系統的な命名法が提案されている。この命名法ではまず、4つの原子を含む系A-C1-C2-B(C1、C2は必ずしも炭素である必要はないが、ここでは便宜上炭素原子としておく)のねじれ角(tortion angle)θを定義する。リガンドAおよびBはC1とC2に結合しているリガンドの中から、次の規則によって選ばれる。
- すべてのリガンドが異なっていれば順位規則に従い最優先のものを選ぶ。
- 2つのリガンドが等しいとき、残る1つを順位規則に関係なく選ぶ。
- すべてのリガンドが等しいとき、最小のねじれ角を与えるリガンドを選ぶ。
A-C1-C2-BをC1-C2方向から23のようにながめたとき、ねじれ角はAがBに重なるように回転させるために必要な回転角として定義される。この回転が時計回りのときねじれ角は正、反時計まわりのとき負の値を持つ。二面角fにははっきりした正負の値が定義されていなかったのと対照的である。
実際のエタン誘導体では、ねじれ角は必ずしも正確に60°の倍数になるとはかぎらないので、立体化学命名法としては、ねじれ角の値をそのまま示さない。円(360°のねじれ角)を図2.2.6-24~26に示すように幾つかの部分に分けて命名し、その組み合わせによって立体化学命名法をつくる。円の上半分はシン(syn)、下半分はアンチ(anti)、また26のpはペリプラナー(periplanar)、cはクリナル(clinal)を表わす。24~26を組み合わせると図2.2.6-27が得られる。27は、符号を含めて8つの部分に分かれている。この要点をS2.5にまとめておいた。また、S2.3のブタンを例として、命名法の概要を図示したのでS2.5と共に参照されたい。
▶ 第8問へ
S2.5 単結合のまわりの立体化学命名法へ