1.3 炭素原子の原子軌道・軌道の混成
1.3 炭素原子の原子軌道・軌道の混成
炭素原子の基底状態の電子配置は1s22s22p2である。この電子配置と原子軌道の配向から考えると、2s電子は非共有電子対をつくり結合には関係しないから、結合電子は2p軌道の2つを占める2個の2p電子だけである。したがって炭素の水素化物はCH2であり、かつ結合角は2つの2p軌道がつくる角度90°でなければならない(図1.3.1)。

図1.3.1 仮想的な炭素の水素化物 CH2
しかし、メタンおよびその水素の一部を他の原子で置換した化合物、たとえばクロロホルムCHCl3などの研究から、メタンの4個の水素はすべて等価であることがわかった。これは4個の不対電子をふくむ4個の原子起動が全部同等であって、s軌道1つ,p軌道3つの組み合わせではないことを示している。これはs軌道1つ、p軌道3つから4個の同等な軌道をつくる混成(hybridization)によって説明される.生じた軌道をsp3混成軌道という.

図1.3.2
メタンの可能な構造に関して、何らかの方法で分子を直接観察しないかぎり、11~13のどれが真の構造に対応するかを定めることはできない。しかし、メタンの置換体もまたメタンと同じ構造をとるものとすると、置換体における異性体の種類からメタンの構造を推定できる。
実験によるとただ一種の塩化メチレンが存在するだけなので、メタンの構造として正四面体構造が妥当であることがわかる。正四面体構造をつくる、すなわちsp3混成炭素原子の原子軌道を図1.4.1に示した。メタン分子はこのsp3混成軌道のそれぞれに、水素原子の1s軌道が重なって4本の1結合が生成することによってつくられる、このように、分子の形を決めるものは、まず第一に分子をつくる原子の原子軌道の配向である。
さてメタンの正四面体構造に対するより決定的な証拠は、メタンの3個水素原子をそれぞれ異なる原子または原子団 ―以下これをリガンド(ligand)と呼ぶ― で置換した分子、たとえば比較的簡単な分子ブロモクロロフルオロメタンCHBrClFの化学から得られる。

図1.3.3
ここで我々は新しい異性体図1.3.3-14と図1.3.3-15の対を知った。14と15とは平面的に書く構造式では区別できないが、3次元的な原子の配列を前提にすると異なる構造を持っている。一般に構造式は同一であるが,原子の空間的配列が異なる異性体を立体異性体(stereoisomer)という。後に学ぶように立体異性にもいろいろの種類があるが、14と15のように互いに左手と右手、実像と鏡像の関係にある1対をエナンチオ異性体(enantio isomer)、あるいは単にエナンチオマー(enantiomer)という。鏡像異性体、対掌体などの用語もよく用いられるが、本書ではエナンチオマーに統一する。14と15では、炭素原子のまわりのリガンドの立体配置(steric configuration あるいは単に configuration)が異なる。
次に問題になるのは、エナンチオマーをはじめとして、立体異性体相互の関係である。これらが構造の異なる異性体であることは明らかだが、その性質や化学反応性などには違いがあるのだろうか?立体化学(stereochemistry)は、種々の化合物の物理的・化学的性質を、特にその立体構造との関連に重点をおいて研究する学問の一分野である。立体化学的な考慮を抜きにしては化学はありえないのはいうまでもない。したがってことさら立体化学という分野をたてる必要はないともいえる。だが、立体化学が化学の一分野として認められているのにはそれなりの理由がある。
第一に、化合物の物理的・化学的性質は立体異性体の間できわめて著しく異なることがある。この差に注目することによって、分子構造と性質との間の関係について、広い範囲の化合物一般を対象にした研究よりもより多くの情報が得られる可能性があること、第二に分子の3次元構造に関する情報を、その情報の媒介手段である印刷物の2次元の世界の中に盛り込み、またそこから3次元情報を取り出すためには、一定の、しかもかなり手のこんだ手続きが必要であることがあげられる。