第一章 解説

1.1 異性・異性体

有機化合物にしても、無機化合物にしても、1つの化合物には1つの分子式が対応する。しかしその逆は必ずしも正しくはなく、1つの分子式に2つ以上の分子が対応することも少なくない。分子式は等しいが構造の異なる分子は互いに異性体(isomer)であり、このような現象を一般に異性(isomerism)という。異性体どうしがどの程度互いに類似しているかによって、異性にもいろいろ種類がありうる。ゆえに異性を理解するためには、まず個々の分子の分子構造を正しく定め、表現することが必要である。分子式(molecular formula)は1つの分子の中に含まれる原子の種類と数を示す。

示性式(rational formula)は、分子の特徴的な性質のもとになっている部分、すなわち官能基(functional group)を分子の中でまとめて書き、その化合物がどのような化合物群に属するかを明示する。構造式(structural formula)では、原子と原子を必要な数の価標で結びつける。これによって、原子の結合順序という範囲での分子構造ははっきり明示される。


図1.1.1

構造式25図1.1.1)において、C-C結合、C-O結合、C-H結合、O-H結合のそれぞれは長さが異なっているが、構造式において価標の長さを特に結合の長さに対応させる約束はない。また1つの原子から2本以上の結合が出ている場合、それらの結合がつくる結合角についてもそれらを構造式に表わすことはしない。たとえば、実験的に求めた水H2Oにおける結合角∠HOHは約104°である.しかし水の構造式としては通常図1.1.2-6あるいは図1.1.2-7のように書く。構造式では、価標の長さや方向が分子構造に正確に対応しているわけではない。


図1.1.2

1.2 分子構造を決めるもの

構造式25図1.1.1)においても、紙面に示した構造式はこれらの化合物の中での原子の配列順を示しているにすぎないから、分子の実際の形を反映しているとはいえない。

では分子構造はどのようなパラメーターによって定義できるだろうか。2原子分子AB(図1.2.1-8)は、原子間距離(結合の長さ)rABだけで、3原子分子ABC(図1.2.1-9)では2つの原子間距離rAB、rBCおよび結合角∠BACの2つのパラメーターで定義される。原子間距離や結合角はどちらも結合をつくる原子に固有のパラメーターであり、化学結合論から予測できる一定の値を持つ。


図1.2.1

ところが4原子分子ABCD(図1.2.1-10)では、3つの原子間距離rAB、rBC、rCD、2つの結合角∠ABC、∠BCDだけでは分子の形を定義することはできない。これらのパラメーターが決まっても、4個の原子が1平面上に並ぶかどうか、1平面上にないとすると、平面からずれた1個がどのような位置にあるかが決まらないかぎり、分子構造は一義的に決まらないからである。

図1.2.1-10の構造は第6のパラメーター、二面角(dihedral angle) φで定義できる。二面角は原子ABCを含む面1と、原子BCDを含む面2がつくる角度として定義できる(図1.2.2)。4原子分子の構造を決めるのに、原子間距離や結合角からは導き出せない新しいパラメーター二面角が必要であることは、次の2つのことを我々に教えてくれる。


図1.2.2 二面角
  1. 分子をつくる原子は必ずしも平面的に並んでいるのではなく、3次元的な広がりを持ちうること。
  2. 分子構造は分子をつくる個々の原子や結合様式だけでは決まらないこと。

しかし、いうまでもなく分子構造を決めるのに決定的な役割を果すのは結合角である。そこで次節では有機化合物における結合角を支配する因子として、炭素原子の原子軌道を考えることにする。

1.3 炭素原子の原子軌道・軌道の混成

炭素原子の基底状態の電子配置は1s22s22p2である。この電子配置と原子軌道の配向から考えると、2s電子は非共有電子対をつくり結合には関係しないから、結合電子は2p軌道の2つを占める2個の2p電子だけである。したがって炭素の水素化物はCH2であり、かつ結合角は2つの2p軌道がつくる角度90°でなければならない(図1.3.1)。


図1.3.1 仮想的な炭素の水素化物 CH2

しかし、メタンおよびその水素の一部を他の原子で置換した化合物、たとえばクロロホルムCHCl3などの研究から、メタンの4個の水素はすべて等価であることがわかった。これは4個の不対電子をふくむ4個の原子起動が全部同等であって、s軌道1つ,p軌道3つの組み合わせではないことを示している。これはs軌道1つ、p軌道3つから4個の同等な軌道をつくる混成(hybridization)によって説明される.生じた軌道をsp3混成軌道という.


図1.3.2

メタンの可能な構造に関して、何らかの方法で分子を直接観察しないかぎり、1113のどれが真の構造に対応するかを定めることはできない。しかし、メタンの置換体もまたメタンと同じ構造をとるものとすると、置換体における異性体の種類からメタンの構造を推定できる。

実験によるとただ一種の塩化メチレンが存在するだけなので、メタンの構造として正四面体構造が妥当であることがわかる。正四面体構造をつくる、すなわちsp3混成炭素原子の原子軌道を図1.4.1に示した。メタン分子はこのsp3混成軌道のそれぞれに、水素原子の1s軌道が重なって4本の1結合が生成することによってつくられる、このように、分子の形を決めるものは、まず第一に分子をつくる原子の原子軌道の配向である。

さてメタンの正四面体構造に対するより決定的な証拠は、メタンの3個水素原子をそれぞれ異なる原子または原子団 ―以下これをリガンド(ligand)と呼ぶ― で置換した分子、たとえば比較的簡単な分子ブロモクロロフルオロメタンCHBrClFの化学から得られる。


図1.3.3

ここで我々は新しい異性体図1.3.3-14図1.3.3-15の対を知った。1415とは平面的に書く構造式では区別できないが、3次元的な原子の配列を前提にすると異なる構造を持っている。一般に構造式は同一であるが,原子の空間的配列が異なる異性体を立体異性体(stereoisomer)という。後に学ぶように立体異性にもいろいろの種類があるが、1415のように互いに左手と右手、実像と鏡像の関係にある1対をエナンチオ異性体(enantio isomer)、あるいは単にエナンチオマー(enantiomer)という。鏡像異性体、対掌体などの用語もよく用いられるが、本書ではエナンチオマーに統一する。1415では、炭素原子のまわりのリガンドの立体配置(steric configuration あるいは単に configuration)が異なる。

次に問題になるのは、エナンチオマーをはじめとして、立体異性体相互の関係である。これらが構造の異なる異性体であることは明らかだが、その性質や化学反応性などには違いがあるのだろうか?立体化学(stereochemistry)は、種々の化合物の物理的・化学的性質を、特にその立体構造との関連に重点をおいて研究する学問の一分野である。立体化学的な考慮を抜きにしては化学はありえないのはいうまでもない。したがってことさら立体化学という分野をたてる必要はないともいえる。だが、立体化学が化学の一分野として認められているのにはそれなりの理由がある。

第一に、化合物の物理的・化学的性質は立体異性体の間できわめて著しく異なることがある。この差に注目することによって、分子構造と性質との間の関係について、広い範囲の化合物一般を対象にした研究よりもより多くの情報が得られる可能性があること、第二に分子の3次元構造に関する情報を、その情報の媒介手段である印刷物の2次元の世界の中に盛り込み、またそこから3次元情報を取り出すためには、一定の、しかもかなり手のこんだ手続きが必要であることがあげられる。

1.4 多重結合

炭素原子は常に4価ではあるが常に4個の他の原子と結合するとはかぎらない。二重結合や三重結合では、炭素原子はそれぞれ3個および2個の他の原子と結合している。まず二重結合をつくる炭素原子を考えよう。2s12px12py12pz1電子配置の炭素原子が、2p軌道(たとえば2pz軌道)をそのままにして、残りの3つ、2s軌道と2p軌道2つで3つの同等な混成軌道をつくることもある。この混成軌道はその成り立ちから、sp2混成軌道と呼ばれる。sp2混成軌道は炭素原子を含む一平面上にあり、混成に関与しなかったp軌道はその平面に垂直である。sp2混成炭素原子の原子軌道を図1.4.1(b)に示した。

sp2炭素原子2個がそのsp2混成軌道1つずつを重ね合せてσ結合をつくるとエチレンの骨格ができる一2つのP軌道が平行に並ぶとここにも重なりが生じπ結合が生成する。すなわち、二重結合はσ結合、π結合各1本からつくられる。残る4つのsp2混成軌道に水素原子が結合するとエチレンC2H4が完成する。


図1.4.1 炭素原子の原子軌道(p軌道は示されていない)

炭素原子が三重結合をつくると、他の2個の原子と結合するだけとなる。このときは2s12px12py12pz1状態から2個の2p軌道をそのまま残して、2s軌道と2p軌道1つから2つの同等なsp混成軌道図1.4.1(C))をつくる。sp混成軌道は互いに反対方向にのびている。言い換えれば、2つのsp混成軌道は互いに180゜をなしている。この2つのsp混成軌道の軸に対して、残る2つのP軌道はそれぞれ直交している。2個のsp混成炭素原子が各2つずつのsp混成軌道の重なりによってσ結合をつくり、さらに2組のp軌道の重なりによって2本のπ結合をつくり、残りの2つのsp混成軌道に水素原子が結合したものがアセチレンC2H2である。


図1.4.2 基本的有機化合物の構造

1.5 分子模型と分子の形

前節の図からも明らかなように、メタン、エチレン、アセチレンのように比較的簡単な分子においても、分子をつくる原子の空間的な関係を紙面に表わすのは決して容易ではない。

そこで、立体化学の重要性が認識されはじめた19世紀後半以来、何十種類もの分子模型が考案され、そのあるものは市販され、多くの研究者の有力な手助けとなってきた。ただ、初期においては立体化学は限られた専門家にとってだけ興味のある分野であったため、教育用というよりは、研究用にのみ用いられていた。20世紀にはいると、およそ有機化合物を扱う以上、何がしかの立体化学の知識が必要であることが広く認められるようになり、それにともない、分子模型は教育の手段としても利用されるようになった。

図1.5.1に代表的な分子模型のスケッチを示す。いずれも2-メチル-2プロパノールの模型である。(a)空間充てん型(実例:Stuart模型、Courtaulds模型)は、電子雲のひろがりという意味での分子の形をよく表わしている。しかし、やや複雑な分子になると、内部にある原子がよく見えないし、また慣れないと原子の配列順序を見失うおそれがある。

これに対して(b)骨格型では結合の長さに比例した棒だけで分子を表わす。この型の特徴は空間充てん型でははっきりしない結合角、結合の長さ、分子のおおまかな形が見やすくなっている点である。

(c)棒と球型模型は(b)の変型とみることもできる。原子の位置(原子核の位置というべきであるかもしれない)を穴のあいた球、結合を棒で表わす。球にあけてある穴の角度は必要な結合角にあわせてあり、棒の長さ(棒でつなげたときの球の中心間の距離)も結合の長さに比例させてある。球の色が元素ごとに塗りわけられているので、分子の化学構造がわかりやすい、という点でも、教育用には最も適しているといえる。


(a) 空間充てん型模型

(b) 骨格形模型

(c) 球と棒型模型

図1.5.1 いろいろな分子模型

HGS模型は国産であり、学生用の安価なセットも含めてどこでも比較的容易に入手できる(総代理店丸善)。立体化学の学習に分子模型は不可欠であるから、この際1セット入手されることをおすすめする。

HGS模型は4個の穴を持つsp3混成原子用のたま(球ではなく、多面体)、5個の穴(2個はp軌道用)をもつsp2混成原子用、sp混成用の穴を含めて多数の穴を持つ多目的のたま、それに水素用の2穴の丸いたま、およびいろいろな長さに切ったプラスチック棒であるボンドからなる。また原子の種類に応じて幾つかの色を選ぶこともできる。錯体などをつくるのに用いるため、数多くの穴を持つたまもある。

分子模型で多重結合を表現するとき2つの形式がある。第一の形式では、結合角や結合の長さを単結合と違えることによって多重結合を表現する。Dreiding模型はこの形式をとる代表的な模型である。第二の形式は何らかの方法で原子と原子の間に1本以上の結合があることを直接表現する。HGS模型は第一の形式で、そのためのたまもポンドも準備されているが、第二の形式をも用いうる。たとえばニチレンに対してもsp3混成用のたまを用い、2個の球の間を2本の曲がったボンドでつなぐ(図1.5.2 左)。アセチレンに対しては、3本の曲がったポンドを用いればよい。

HGS模型ではこのような問題点を克服するために第三の形式を用意している。二重結合の場合、5個の穴のあいているsp2混成用のたまを用い、2個の水素原子ともう1個のsp2炭素原子とを3個のsp2混成軌道用の穴を用いて結合させ、残りの2個のp軌道用の穴に軌道板を立てる(図1.5.2 右)。2組のp軌道が最もよく重なるときが分子の最も安定な構造であるから、軌道板を固定して、エチレンの最安定な構造をつくることもできる。


図1.5.2 HGS模型によるニチレンの分子模型

二重結合を分子模型でどのように表わすべきか、という問題は、やや異なる形で炭素一炭素単結合について問題を投げかける。分子模型でエタンの模型を組む場合、エタンの炭素一炭素結合をどのようた模型で組み立てても、2つのメチル基の相対的な幾何学的関係は必ずしも一定ではない。分子模型において、一方のメチル基を固定したまま、他方のメチル基を回転させることができる。このとき、分子の全体の形は絶えず変化している。しかし分子の形が変化しているといっても、原子間距離や結合角は一定であり、変化しているのは2つのメチル基に属する水素原子の間の距離である。

2個のメチル基のおのおのから水素原子1個ずつを選び、それぞれをHA、HBと命名する。メチル基の回転によって、HAとHBの間の距離が変化するのは明らかであるが、この変化は図1.1.1にならって4個の原子HA-C-C-HBが定める2つの平面のなす二面角の変化で表わすこともできよう(図1.5.3(a)、(b))。


図1.5.3 エ夕ンの形の変化と二面角

では、このような分子模型の形の変化は、分子の形に実際に起こる変化に対応しているのであろうか。それとも、単に分子模型の不備にすぎないのであろうか。100年以上も昔から、炭素-炭素単結合のまわりにはこのような結合の回転が自由に行なわれている ― 自由回転(free rotation) ― という考え方が知られていた。今世紀の半ばまでには、確かに結合の回転は起こっているが、それは完全に自由ではなく、ある程度の束縛を伴う回転 ― 束縛回転(restricted rotation )― であることが明らかになった。

分子にこのような回転が存在することは、その分子の形、性質、さらには反応性にどのような影響を与えるだろうか。これもまた興味ある立体化学の問題である。

1.6 立体構造の表示法

1つの分子式に幾つもの異なる分子が対応するとなると、化合物の命名法は重要な役割をになうことになる。第一に1つの化合物名は必ず1つの化合物に対応しなければならない(1つの化合物が2つ以上の名称に対応することはある)。第二に化合物名からその構造が誰にでも正しく再構成されなげればならない。ラボアジエの時代からこのかた、化学者は合理的、普遍的でしかも簡便な命名法を確立するために、なみなみならぬ努力を払ってきた。その結果、比較的簡単な化合物の名称は、初心者にも理解し、利用できるものとなってきた。たとえば、C4H9OH(表1.6.1-2~5)の名称は以下のようである。


表1.6.1

第一の命名法(A)は、19世紀から用いられている伝統的、慣用的なものであるのに対して、第二の命名法(B)は、より規則的、系統的であり、原則をのみこんだ後は(B)のほうが利用しやすい。

構造式は等しいが原子の空間的配置が異なる立体異性体に対しても、第一に1つの立体構造と1対1で対応し、第二にその名称から立体構造が再構成できるような命名法が必要である。分子の立体化学をも含む命名法、すなわち立体化学命名法は、化合物命名法よりもはるかに歴史は新しいが、その発展のパターンはきわめて類似している。すなわちまず最初にある特定の化合物群(たとえばアルケン、オキシム等)に対する立体化学命名法(慣用的命名法に相当)がつくられ、その後すべての化合物群に適用できるような系統的命名法が考案された。

ゆくゆくは後者の命名法に統一される傾向にあるとはいえ、前者の命名法も知らないわけにはゆかない。現実に両方の命名法が用いられているし、さらに古い命名法で書かれている過去の文献の必要性もまだまだおとろえないからである。そこで、本書でも必要に応じて両方の命名法を学ぶことにする。

【順位規則】

系統的立体化学命名法の基礎に順位規則(sequence rule)がある。順位規則によって一群のリガンドの間の優先1頂位が定まる。

順位規則によって定められた順位、および各種化合物のそれぞれに関する23の規約によって立体化学が記述される。順位規則を説明するために、化合物19の原子Xに結合している4個のリガンドの優先順位をつけてみよう。


図1.6.2

【優先順位の決め方】

  1. 原子は一般に原子番号の大きいものが原子番号の小さいものに優先する。
  2. 同位体の中では、質量数の大きいものが質量数の小さいものに優先する。
  3. まず第一に直接結合している原子(P、Q、A、A)の間で比較して優先順位をつける。
  4. 同等の原子(A、A)があるときは、それぞれに直接結合しているリガンドを優先順に並べたもの(B、C、D)を、もう1つの原子の持つリガンドを優先順に並べたもの(B、C、E)と比較する。
  5. それでも順位が決まらないときは、この操作を順位が決まるまでくり返す。
  6. 二重結合や三重結合のある場合は、あたかも2本の単結合があるかのように扱う。すなわちA-B二重結合においては、A原子は1個でなく2個のB原子と、同様にB原子は2個のA原子と結合しているとして1~5の規則を適用する。

図1.6.3

このような(A)原子、(B)原子をレプリカ(replica)原子という。

S1.5にはよくでてくるリガンドを、優先順位の低いほうから順番に列挙した。この順位は置換によって容易に変動するので注意を要する。たとえばメチルCH3-はエチル-CH2CH3より低位であるが、フルオロメチル-CH2Fはエチルより高位である。