1.5 分子模型と分子の形
前節の図からも明らかなように、メタン、エチレン、アセチレンのように比較的簡単な分子においても、分子をつくる原子の空間的な関係を紙面に表わすのは決して容易ではない。
そこで、立体化学の重要性が認識されはじめた19世紀後半以来、何十種類もの分子模型が考案され、そのあるものは市販され、多くの研究者の有力な手助けとなってきた。ただ、初期においては立体化学は限られた専門家にとってだけ興味のある分野であったため、教育用というよりは、研究用にのみ用いられていた。20世紀にはいると、およそ有機化合物を扱う以上、何がしかの立体化学の知識が必要であることが広く認められるようになり、それにともない、分子模型は教育の手段としても利用されるようになった。
図1.5.1に代表的な分子模型のスケッチを示す。いずれも2-メチル-2プロパノールの模型である。(a)空間充てん型(実例:Stuart模型、Courtaulds模型)は、電子雲のひろがりという意味での分子の形をよく表わしている。しかし、やや複雑な分子になると、内部にある原子がよく見えないし、また慣れないと原子の配列順序を見失うおそれがある。
これに対して(b)骨格型では結合の長さに比例した棒だけで分子を表わす。この型の特徴は空間充てん型でははっきりしない結合角、結合の長さ、分子のおおまかな形が見やすくなっている点である。
(c)棒と球型模型は(b)の変型とみることもできる。原子の位置(原子核の位置というべきであるかもしれない)を穴のあいた球、結合を棒で表わす。球にあけてある穴の角度は必要な結合角にあわせてあり、棒の長さ(棒でつなげたときの球の中心間の距離)も結合の長さに比例させてある。球の色が元素ごとに塗りわけられているので、分子の化学構造がわかりやすい、という点でも、教育用には最も適しているといえる。
(a) 空間充てん型模型
(b) 骨格形模型
(c) 球と棒型模型
図1.5.1 いろいろな分子模型
HGS模型は国産であり、学生用の安価なセットも含めてどこでも比較的容易に入手できる(総代理店丸善)。立体化学の学習に分子模型は不可欠であるから、この際1セット入手されることをおすすめする。
HGS模型は4個の穴を持つsp3混成原子用のたま(球ではなく、多面体)、5個の穴(2個はp軌道用)をもつsp2混成原子用、sp混成用の穴を含めて多数の穴を持つ多目的のたま、それに水素用の2穴の丸いたま、およびいろいろな長さに切ったプラスチック棒であるボンドからなる。また原子の種類に応じて幾つかの色を選ぶこともできる。錯体などをつくるのに用いるため、数多くの穴を持つたまもある。
S1.3 分子模型の種類へ
▶ 第20問へ
分子模型で多重結合を表現するとき2つの形式がある。第一の形式では、結合角や結合の長さを単結合と違えることによって多重結合を表現する。Dreiding模型はこの形式をとる代表的な模型である。第二の形式は何らかの方法で原子と原子の間に1本以上の結合があることを直接表現する。HGS模型は第一の形式で、そのためのたまもポンドも準備されているが、第二の形式をも用いうる。たとえばニチレンに対してもsp3混成用のたまを用い、2個の球の間を2本の曲がったボンドでつなぐ(図1.5.2 左)。アセチレンに対しては、3本の曲がったポンドを用いればよい。
▶ 第24問へ
HGS模型ではこのような問題点を克服するために第三の形式を用意している。二重結合の場合、5個の穴のあいているsp2混成用のたまを用い、2個の水素原子ともう1個のsp2炭素原子とを3個のsp2混成軌道用の穴を用いて結合させ、残りの2個のp軌道用の穴に軌道板を立てる(図1.5.2 右)。2組のp軌道が最もよく重なるときが分子の最も安定な構造であるから、軌道板を固定して、エチレンの最安定な構造をつくることもできる。
図1.5.2 HGS模型によるニチレンの分子模型
二重結合を分子模型でどのように表わすべきか、という問題は、やや異なる形で炭素一炭素単結合について問題を投げかける。分子模型でエタンの模型を組む場合、エタンの炭素一炭素結合をどのようた模型で組み立てても、2つのメチル基の相対的な幾何学的関係は必ずしも一定ではない。分子模型において、一方のメチル基を固定したまま、他方のメチル基を回転させることができる。このとき、分子の全体の形は絶えず変化している。しかし分子の形が変化しているといっても、原子間距離や結合角は一定であり、変化しているのは2つのメチル基に属する水素原子の間の距離である。
2個のメチル基のおのおのから水素原子1個ずつを選び、それぞれをHA、HBと命名する。メチル基の回転によって、HAとHBの間の距離が変化するのは明らかであるが、この変化は図1.1.1にならって4個の原子HA-C-C-HBが定める2つの平面のなす二面角の変化で表わすこともできよう(図1.5.3(a)、(b))。
図1.5.3 エ夕ンの形の変化と二面角
では、このような分子模型の形の変化は、分子の形に実際に起こる変化に対応しているのであろうか。それとも、単に分子模型の不備にすぎないのであろうか。100年以上も昔から、炭素-炭素単結合のまわりにはこのような結合の回転が自由に行なわれている ― 自由回転(free rotation) ― という考え方が知られていた。今世紀の半ばまでには、確かに結合の回転は起こっているが、それは完全に自由ではなく、ある程度の束縛を伴う回転 ― 束縛回転(restricted rotation )― であることが明らかになった。
分子にこのような回転が存在することは、その分子の形、性質、さらには反応性にどのような影響を与えるだろうか。これもまた興味ある立体化学の問題である。